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小さな手大きな手

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2010年08月02週
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 キャンプで子どもたちが四日間過ごすことになった、旧後川小学校近くの、元製材所の前には、ぼろぼろに腐りかけた木材が、3、4本積み上げられています(ただ腐っていくのをそのままにしているのではなく、桜、﨔などの“白太”の部分をわざと腐らせて、芯材をとる為にそうしているのだと、元製材所の井上さんは話していました)。キャンプ中に設定された菅井啓之さんの、自然観察教室は、そのぼろぼろに腐りかけた木材で見つけた茸のことから始まりました。菅井さんには、ぼろぼろに腐っていく木に見つかる茸には、“木の子”に見えます。ただ腐っていると見える木ですが、茸がそれを食べることで育っているとすれば、木の子なのです。木の子は、木を食べてそれを土に戻し、土に戻った木はそれで木を育てます。菅井さんにとって、茸は“木の子”に見えて当然なのです。


 菅井さんは「ものの見方を育む自然観察入門」で「そもそも自然というものを知る意義とは何か?これらのことを深く考えていけば哲学することになってくる」「・・・自然哲学してみること、つまり自分自身にとって自然とは何かを考えてみることが必要である。自然を取り巻き、自分を生かしている自然、一生を生きる場が自然であり、自然の中に生まれ、生き、死んでいく自分自身の生命そのものが自然である」と書いています。茸は“木の子”なのです。子どもたちと後川の自然観察に出かける前に“自然哲学”ということで、ソローの「森の生活」のことが少し話題になりました。そこでも「『森の生活』のソローの哲学は、彼の生活そのもので、そこが違うんですよねー」と、しみじみ話していました。自然を、自分が生きる生活の営みから見つめる時、それが“哲学”になるという意味での洞察を、ソローは「森の生活」の中でしています。「いちばん気の荒い動物たちは、いまも休むことなく獲物を探しまわっている。キツネやスカンクやウサギは、恐れることもなく野原や森の中をさまよい歩いていることだろう。彼らは自然の夜警なのだ―生命をもった生活の日々を結ぶきずななのだ」。ソローにとっても、茸は“木の子”なのです。


 腐って、茸が生えている木は、西宮北口あたりで見つからなくはありません。しかし、後川でそれが見つかってしまうのは、そこがどこよりも自然に近いという意味で、様子が違っています。西宮北口では、茸は木の子に見えにくいし、木の子にもなりにくいのですが、後川で茸は、当然のようにして木の子になるし、ほんの少し歩けば、茸が木の子になっている様子を見かけます。西宮北口のあたりに住んでしまっていると、たまたま後川のような場所に行って腐っていく木に茸を見つけても、腐っていく木のこととしてしか気付きません。気付かなくなっているのです。


 後川では、久しぶりにブトに刺されました。ブトのことはマムシと共に、地元の人から注意されていました。西宮北口あたりだと、虫刺されと言えば蚊ですが、後川はブトの方が要注意なのは、ブトが水のきれいな渓流の水草などを生活の場としているからです。西宮北口あたりを流れる津門川は、ブトの生きられる川ではありません。“夏場は気温の低い朝夕に発生し、昼間はあまり活動しない。ただし、曇りや雨など湿気が高く日射や気温が低い時は、時間に関係なく発生する”ブトは、キャンプの三日目に雨が降って、その後、刺されたらしい子どもが多くなりました。


 子どもの頃に過ごした田舎の家のすぐ近くにも、渓流らしきものがあって、ブトはいました。しかし、そのブトが蚊以上に話題になることはありませんでした。たぶん、蚊に刺された時と、ブトに刺された時には違いがあって、それなりの対応をしていたのです。ブトに刺された時、“蚊と違い吸血の際は皮膚を噛み切り吸血するので、多少の痛みを伴い、中心に赤い出血点や流血、水ぶくれが現れ”ます。子どものころには、そんなことを生活の中で知っていて、気温が低く、湿気の多い朝夕、戸外で“チクッ”ときたらブトで、その部分を爪先で挟むようにして、毒を絞り出していました。後川でも、その“チクッ”に気付いて申告にきた子どもたちで、思いっきり絞り出した場合には、そんなにひどくはならなかったように思います。ただし、“チクッ”に慣れていない場合、気が付いた時には、吸血部分を中心にはれ上がって激しくかゆい、ということになってしまいます。


 自然の体験は、それが自然であればある程度、その人が生きている日々の自然との関係が問われます。その人の日々の自然と遠い、自然との出会い、付き合い方は、気楽にという訳にはいかなくなります。後川では、地元の人からもう一つ注意されていた、マムシとは出会いませんでしたが、アオダイショウはもちろん、咬まれるとやっかいなヤマカガシとも、当り前のように出会ってしまいます。遊び半分で付き合う自然ではなく、“生命をもった生活の日々に結ぶきずな”としての自然の世界が、子どもたちが過ごした後川の四日間だったように思えます。
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