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2010年09月01週
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 教会の礼拝などで使っている讃美歌が古くなって、表紙がはがれたり、数も足らなくてなって、日曜日には事務所で使っている讃美歌も動員されたりしていました。で、少し購入することになって、ふと気がついたのは、多くの教会では、1997年に発行された「讃美歌21」に更新され、“古い”讃美歌は眠っているかもしれないということでした。さっそく、いくつかの教会に問い合わせてみましたが、”処分”したという返事が返ってきました。
 

 西宮公同教会では、1997年に「讃美歌21」が発行された後も、1954年発行の「讃美歌」を使ってきました。それが良いという特別の根拠があった訳ではなく、歌い継がれてきたから、というのが何よりの理由でした。半世紀にわたって、諳んじるくらい歌い、キリスト教、教会で生きてきた証しでもある讃美歌を、変える理由が見つからない、ということもありました。多分、1954年版の“序”で示されている考え方が、50年間使われ続けた「讃美歌」の力でもあったように思えます。「・・・改訂の主旨は、できるだけ歌いやすく使いやすい会衆用の歌集を編むことにおかれた。いわば現実に即した実用価値の高い歌集を造ることが・・・念願」でもあったと、所には書かれています。「讃美歌21」の“まえがき”は、「・・・神の民の歴史は讃美歌と共にありました。キリスト者たちは讃美歌によって、神の御名と御業の偉大さをたたえ、主イエス・キリストを告白してきました。賛美の声があがるところはいつも聖霊が働き、信仰の交わりが与えられてきました。讃美歌は私たちを信仰に導き、義を育てます。・・・」などと述べ、更に8項目の編集方針が挙げられ、8番目は「用語や歌詞、音楽の面でも会衆が理解できる歌、またその感性に応じる歌」となっています。歌は、何かの目的の為の歌になってしまった時、歌い手を拒み、かつ歌い手によって拒まれてしまいます。讃美歌も歌である限り例外ではありません。讃美歌は、“歌いやすく、使いやすく”“現実に即した実用価値の高い歌集”であってよいのです。
 

 教会学校で子どもたちも歌っている「讃美歌」502番は、「讃美歌21」には402番として、少しだけ歌詞を変えて掲載されています。
 

 たとえば、1節の「飢えしこころも 飽き足らいぬ」は「飢えしこころも いまは満ちぬ」になります。“飽き足らいぬ”は、“飽きるくらいで、足らないことはないだろう”ぐらいの意味で、“いまは満ちた”と断言してはいません。たぶん、どんな時の、どんな場合でも、人の生き様は、断定・断言してしまえるほど確かではないのです。2節では「あまねく人に えさせまほし」が「あまねく人に 語り伝えん」になります。“えさせまほし”は“得させたいものだ”ぐらいの意味で、“語り伝えん”のように、確信を持って語り伝えるのとは、やはり少し違っています。誰かから何かを聞くことに置いても、それを語ることにおいても、完全に確実ということはあり得ないのです。3節では「くすしきめぐみ あまねく満ち」が「語り尽くせぬ イエスの恵み」になります。“くすしきめぐみ”は、すばらしい恵みぐらいの意味でしょうが、そうして評価される恵みが、そこいらをおおい尽くすということは、あり得ることだとしても、それが“語り尽くせぬ イエスの恵み”と言葉にし、語り、人の側に引き寄せてしまう、引き寄せられてしまうことで、内容がうんと小さなものになってしまいます。逆に誰かが、“イエスの恵みは 語り尽くせぬ”と言いきってしまうとすれば、その場合の確かさこそが、うさんくさいのです。
 

 「讃美歌」の方が、特によくできているということではないのだと思います。けれども、言いきったり、断定をしたりしないあたり、余韻の残っているところが「讃美歌21」と「讃美歌」の違いです。
 

 「讃美歌」は、5冊だけ購入することになり、「讃美歌21」に変えることになったものの、讃美歌と讃美歌第二編と、ともにうたおう(合冊になった讃美歌)を残していたT教会から、30冊譲ってもらうことになりました。合冊になっている讃美歌第2編の167番の「われをもすくいし」(Amazing Grace)は、西宮公同教会では良く歌いますから、この合冊は使い勝手が良いのかもしれません。ちなみに第2編167番は、「讃美歌21」では451番で“信仰・救いの確信、くすしきみ恵み”で、やはり歌詞が少し変えられています。たとえば、1節の「われをもすくいし くしきめぐみ きよけし身もいま たちかえりぬ」が「くすしき み恵み われを救い、きよけしこの身も たちかえりぬ」となっています。確かに、Amazing Graceは“信仰・救いの確信”らしきものを歌っていますが、“われをもすくいし くしきめぐみ”を“くすしき み恵み われを救い”とひっくり返してしまうと、“確信”が、あたかもその人の自分の確信になってしまうように思えます。何かにゆだねるという意味の確信ではなくなってしまうのです。
 

 ずっと「讃美歌」で歌って来ていて、たまに「讃美歌21」を歌うことになった時、そこが違和感であるように思えます。
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